ホーム   >   釧路産炭地域の歴史   >   白糠町産炭史


白糠町産炭史

白糠炭田の歴史は古く、その始まりは江戸時代にも遡る。

創成期

石炭岬に開坑した白糠炭田は、幕府の函館開港で外国船へ石炭を供給する政策によって安政4(1857)年開発されました。まさに、北海道における炭山開発の歴史的第一歩です。囚人までも入れて採炭した白糠最初のヤマの灯は、炭質の低下などから需要先の外国船からも不評で、わずか7年で消えることとなるのです。

年月を経て釧路港の開港や同港から白糠を経て内陸へ鉄道敷設計画が具体的となりだす明治30(1897)年、東京の肥田照作がプシナイ付近で開坑、採炭に着手してから再び白糠炭田にヤマの灯が浮上します。炭田開坑から33年目のことです。その後、鉄道の開通で明治期には釧路の安田炭鉱がここに日本郵船(株)との契約炭確保のため炭鉱を開坑した時期さえあります。

隆盛期

昭和12(1937)年、日華事変の勃発とともに炭鉱景気をむかえ大手会社が多数進出し、同年三菱鉱業(株)が白糠炭田に鉱区を設定、翌13(1938)年には、雄別炭礦鉄道(株)が加利庶炭砿を、明治鉱業(株)が庶路に採掘鉱区を買収しました。

その後も神之沢炭鉱、茶路炭鉱が開坑し、日華事変の長期化に応えるため生産力の拡充で出炭増加が図られ、昭和14(1939)年12月明治鉱業(株)庶路炭鉱(西庶路)が開坑、営業採炭とします。また同16(1941)年本岐鉱を明治鉱業(株)が買収することで白糠の出炭量は増加します。戦中の九州転換により全山休坑となります。

戦後・経済成長期

終戦後(1945年〜)、保坑指定を受けていた明治庶路炭鉱の再開を機に、ヤマは続々と開坑。復興期のエネルギー生産の一翼を担います。昭和30(1955)年の石炭鉱業合理化臨時措置法の施行に伴って、これ以降、庶路炭鉱の規模拡大で町となった白糠町域の炭鉱では小炭鉱の閉山が相次ぎ、下請で出炭を図る小炭鉱が輩出するという状況となります。「スクラップアンドビルド」政策がこの地でも進みます。

昭和37(1962)年石炭鉱業合理化策が一段と進むと明治鉱業においても庶路炭鉱から本岐坑、本岐一坑をもって本岐炭鉱として分離し合理化で対応します。庶路炭鉱では庶路川の豊富な水力を利用し、当時、最先端技術であった水力採炭で出炭を図りますが、昭和39(1964)年3月国内初の企業ぐるみの“政策”閉山をすることとなります。本岐炭鉱のほうは、5年間期限付での操業となり20万トン台を500人台〜600人台で出炭を進めます。しかし予定どおり同44(1969)年6月閉山となります。

庶路炭鉱の閉山に伴って、それまで北海道電力が具体的に準備を進めていた釧路火力発電所建設計画も中止となります。また、白糠町の炭鉱閉山を受けて、釧路西港の後背地としての白糠町庶路地域(コイトイ区)で石炭鉱業合理化事業団から公資金を導入して釧路白糠工業団地の造成が開始されるのです。

白糠町の中核炭鉱である明治鉱業の炭鉱閉山で白糠町の人口は急減しませんでした。それは昭和39(1964)年4月白糠町の明治鉱業の閉山に伴って、同町域の上茶路鉱区を雄別炭礦の計画新坑として上茶路炭鉱の開発を政治決着させたからです。同41(1966)年上茶路鉱業所が営業採炭を開始します。

上茶路から白糠駅までの白糠線(25.4km)が開業し白糠駅は同町の西庶路駅にかわって石炭積み出し駅として拠点化が進みます。しかし昭和45(1970)年2月の雄別三山の閉山に伴い上茶路地域に炭住街を形成した上茶路炭鉱も閉山されます。この閉山によって白糠町の人口は1万5千400人へと急減したのです。これ以降白糠町は音別町同様に工業団地への企業誘致を積極化していきます。




釧路産炭地域の歴史

釧路市産炭史
釧路町産炭史
阿寒町産炭史
厚岸町産炭史
白糠町産炭史
音別町産炭史
浦幌町産炭史

釧路炭田その軌跡

DVD「炭鉱遺産を訪ねて」

釧路コールマイン(株)
《釧路炭鉱》